非常勤講師になった一般人

新卒非常勤の脳内を垂れ流します

日記4日目

今日も日記の時間がやってまいりました。当初は21時半からだったのに気づけばもう22時ですね、最近風呂入ってから1時間超時間を浪費してしまう。今日はアベマのドキュメンタリー(特別養子縁組について、19歳の自分の孕んだ子を異物と呼ぶ女への批判コメントであふれていた)oasisのNoelのインタビューそこから派生してoasisのLiveを漁り、ジョンレノンのinsane peopleについて、イルミナティーについて。なんだかどうしても自分には何もないと悲観的になってしまう、そんな世界で名を馳せるような才能、努力量、カリスマ性を備えた人間と比較するだけ無駄なんだけどさ、、、タイムリーなことに今キーボードに左に虫けらを発見、ノチノチ歩いてら。思わずなあと話しかけた。

この虫ちゃんと今日も一日をつづりたいとおもいまつ。今日は6時50分に起床。5分もたたずに走りに出る。雨なのは知っていた、があんなに寒いとは予想していなかった、鼻水はでるわなんだか寝ぼけたような。そういえば、夢で悪いことでもあったのか寂しく後悔がましい感情になることないですかね、それが今日の朝にはありましたね。とにかく寒かったので、ずっと走ったジロウも喜んでくれたはずだ。

ジロウをつなげ、朝食を頂く。今日は昨日の残りのスープ。これがまたうまい。そんでもって、キノコ白菜豚肉揚げ豆腐がたーくさん入った白湯スープだもんでもうこれはたまらん。おまけに納豆を喰らいコロナを粉砕。

ごちそうを頂いた後、特に何もしなかったな。。。今日は特にやばいな。

昼は中高生時代、弁当での楽しみだった一品の惣菜肉料理。久しぶりの対面だったので、とても懐かしかった、うまっかった。

そんで、そうだ今日はなんと昼寝をしてしまった。要因も大体つかめた。昨日、「黒子のバスケ」脅迫事件の陳述をスマホの画面に長時間かじりついたのに加えて、22時から一時間ブログを書いていたからだ。寝る前にスクリーンを見るということがどれだけ睡眠を阻害するのか、身をもって体験。以後気を付ける。

昼寝が終わったのは14時半、そこから母と買い物にアクアちゃんと向かう。暇そうだったので、せっかくの春休み、時間を作ろうとの気概からがらでもなく私から誘った。だが、結局バイトを終えた妹も急きょ参戦、迎えに行き家具屋へ。やはり今日は土曜日とあって、人が多かった。さらに、さすが某大手家具店、新婚夫婦カップル大学生の一人暮らしに奮闘する親とらしきティーンであふれていた。

こういうとき、いつも思う。自分もいつか彼らのように家具を眺めることができるのだろうか。隣には最愛の人間、家具を吟味できるほどの資金源や住まい。もはや、普通の家庭とやらは全く普通ではないのだよと高い壁が私を押しつぶそうとしてる。

そんな馬鹿みたいに卑屈に考えながら家具店を後にした、一人天使がいたのでそれを脳内へのお土産として持ち帰った(意味が分からない)

帰宅後いつものようにジロウの散歩に行き、風呂掃除をした。今日は珍しく料理も手伝った、今日は餃子だった。自分の悪い癖として、あまりやったことのないことは当然うまくいかないのだが、センスがないと才能がないと評価されるのを恐れて極力挑戦することを避ける。今回の餃子作り、そうそんな些細なことですら挑戦しようとは思えないし、母親という存在の前ですらそうだ。と「餃子包んで」「わかった」のやり取りの間に考えたのであった。

まあ予想通り、餃子はひどいものだった。がまぎれもなくその時間は貴重なものとなった。あんな空気感で話したのは久々だった。肉がはみ出た不細工な餃子に感謝だな。

父もゴルフから帰ってきて、団らんで飯を食うた。がらでもなく、私は父にそのゴルフについて深く質問していった。昔から、父とまともに仕事の話やプライベートの話はほとんどしてこなかったが、どうしてかここ一年で父への興味関心が急激に高まってきておりたわいもない話からキャリアのはなしまで踏み込むようになってきた。いよいよ、自分は子供ではないのかと漠然とそう感じている毎日である。

今日は図書館にもいかず、昼寝や携帯に時間を多く使ってしまったうんちデーと化してしまった。とブログを書く前は思っていた。しかし、完全に今日はうんちデーというわけでもなかったようだ。母と父、妹と良い時間を共有できていた。

人はネガティブ感情が優位になるような本能が備わっているらしい。特に私はネガティブ思考者だ。そういう自分を変えるべく日々できるだけ前を向いてこなしているつもりだ。三日坊主の私も今日で無事峠を越えられた、自分にしては大きな一歩だ。そして明日は、前々から決めていた家族でお出かけデーだ。コロナの影響で遠出はしない、まして明日の目的は近所の山と昼飯だ。だけれども、家族全員健康で金銭的にも余裕で不仲ではない、それだけでもう幸せではないか。きれいごとをのたまっているのではなくまさしくそうなのだ。人間感謝を感謝を忘れたら、それこそうんちだとそう思う。。