非常勤講師になった一般人

新卒非常勤の脳内を垂れ流します

非常勤講師10日目

 

どもこんばんは。実に6日ぶりのタイピングとなります。いやー実にやる気が出なかったのであります。緊急事態宣言発令により、学校は休校。当然部活も休み。せっかく入学式等も終わってさあ授業だ、部活も始まってさあ良い部活にしていくぞと意気込んだ矢先でしたから、とても日記を記そうなんて、PCの前に座りかたかたやる気力にはなりませんでしたよ。

今日は学校内の整理整頓。学年ごとに分かれ手分けして、置物と化した教室を再生すべく片付けたのであった。もろもろ時間ごとに整理では総括。

6:30 起床

6:50 飯

7:25 出勤

7:35 コンビニにて昼食購入。駐車場空きなし

7:45 到着

8:30

~10:30 あくせく働く。暇より誰かの助けになればと、空き時間に他学年の補助に向かうが、素晴らしいと褒められる一方で、全く言及してこず迷惑そうな顔をする先生もおり、「ああまたどうせ媚売りなんておもわれてんだろうな」と引き返す。褒められるためにやっていない。ただ、人のため、そしてその副産物として評価を得たいだけだ。本心であるが、そういう逆風の表情を見るととてもいやな気分になる。いつか見ておけよ、あいつらの顔なんか気にならないくらいの人間になってやる。

10:50

~11:30 教科会議

11:50 ここでも非常勤の悪いところが出る。担当学年の担任らが作業を理由にそのついでとして昼飯に出かけた。私が机に向かっているのをしり目に声をかけずに、出かけていったのだ。なんとも、あいつらと思いつつ気を遣うわけにも納得はできる。というわけで、ここでも少し悔しい思いをしたので、あいつらが楽しんでいる間に少しでも進んでやろう、後悔させてやろうといっそ集中して読書に励んだ。

12:35

~15:30 読書。本は『AI vs 教科書が読めない子どもたち』 新井紀子

だ。結論から言うと、私が読んだ中で一番、教壇に立つ身としていち大学受験失敗者として危機感を覚えさせられた、脳内へ直接ダメージを負わされるほどの影響力を与えてくれた最高の本だった。読んでから、いてもたってもいられなくなり、なにかこの本で得たことを実生活に活かさなければと焦りさえ感じる。その焦りの結果の一つが、このさぼり日記を再開させることというわけだ。

本を読むときは、思ったこと考えたことをメモしているのだが、そのメモを読み返すだけでも時間が過ぎてしまうほど、自分の中に新しい知識考え方が取り込まれ持論とぶつかり新しい回路が見つかった、とても読書らしい最高の本だ。絶対に教師はこの本を読むべきだ。いかに現代の教育がまずいものでありその待ち受ける世界が悲惨なものか。AIへの正しい理解を得られるだけでなく、技術革新の急伸による激動の世界にとてもついていけていない日本の現状、凝り固まった融通の利かない教育現場、それらがゆえの中高生の危機的状況。これらを、的確かつわかりやすい日本語で、そしていっさい私欲にかられることなくただ日本の将来、子供たちへなにかできることはないかと尽力なさっておられる方々が、膨大な時間と労力、様々な権威らが携わり完成させられた『AI vs 教科書が読めない子どもたち』。読まない手はないだろう。

16:00 退勤。集中力が続かない、体力がない。直ぐ帰ってしまうのを直さなければ。勤務時間外とは言っても、帰ったところですることはないのだから。。。

20:50 特になにをするでもなく、今に至る。しかし、タイピングもなかなか上達していないよ。適当にうっては修正しを繰り返している。考えていない証拠だな。これからは考えて打とう。

 

てなわけで、日記を再開させたわけであるが、とりわけ生活に張りがあるわけでもなくただ日々を送らせているだけである。学校図書で借りた『心理学入門』やらなんやらに興味深いことが書いてあった。「青年期を平穏に送ったということは、つまりは青年期で克服する課題を先延ばしにしているだけである。」と。

まさにその通りなのである。私は、いわゆる反抗期は存在しなかった。良い子であることを強制され、それにこたえるべくありとあらゆる手をつかってなんとか抑制することにたまたま成功したのである。がしかし、結局それは、愚かな自分を認めてくれる存在はもはや存在せずに、また目上の存在がおかしな言動をとっていてもそれをおかしいといえる愚直さ後先顧みない果敢な態度をとる機会が許されることはこの先ないということなのだ。これから何年も身を置きその枠組みの中でのIDを汚すようなこと、すなわち愚かさや愚直さを発揮することは、許されないのである。まして教師というような、厳格・正義・神聖な職業であってみろ。反抗期に反抗することの重要さを自分の人生を持って体験したのである。Havighurstが提唱した発達課題はまさに的を射たものなのである。

この際だから言っておくが、教師というものは意外と小心者でしょうもないものだ。年功序列的な要素がとても強く、会議などでは年齢が上の人間が仕切りその人間がやりたいようにやり周りの人間はめったに声を出すことはない。なんらかの集合時間や始まりの時間になる寸前まで周りの人間が動き出すのをまったり、終了時間を過ぎても上の人間仕切る人間が締めの挨拶をするまでひたすら待つ。沈黙になってやっとよしと解散するといった具合である。教師は生真面目であるがために、人間関係においても非常に慎重であり、愛想笑いは絶えず、褒め合い、それに謙遜しあう。熱のこもった持論の掛け合いなどはみたことはなく、その場が丸く収まればそれでよし。会議の規模が大きくなるにつれ私たち新参者に話が降られることはなく、そのような会議では有能な3040代の先生方も居眠りをしていることがある。

このような調子なのである。そんな環境下、もっとも私は非常勤で性格面もそのようなので、学校では自分が誰なのかわからないのだ。全く持って、自分ではない。教師とはそういうものなのか。自分のスタンスを確定しなければ、ゆらゆらとしたまま「その時」が来ることはないだろう。まるで、蝉の幼虫が地中で死ぬように、準備期間が続いていき年齢だけを重ねるようなことになるのだけはごめんだ。毎日、考えてそれでおやすみではもう、23になるこの年では許されるはずもない。